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The Super BallThe Super Ball

【ライブポケット】次世代アーティスト特集 #3

The Super Ball

いまの自分たちをそのままに。最新作「花火」に詰め込まれたブレない思い。
デビューから3年。めまぐるしく変わる音楽シーンを
駆け抜けてきたThe Super BallがLivePocket 初登場!!

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嘘をつかずに、自分たちのありのままを曝け出したい。青森と神奈川出身のふたりで結成されたツインボーカルユニット、The Super Ballが7月17日にリリースするニューシングル「花火」は、そんなアーティストとしての根源的なテーマに向き合った作品だ。とかく希望を求め、勇気を与えることが美しいとされるポップミュージックの理想に反して、この曲には、親しい人の死に直面した悲しみだけが横たわっている。メジャーデビューから3年。常にグッドミュージックを求めてきた彼らは、なぜ、このタイミングでこうも生々しくなったのか。佐々木陽吾 (Vo/Gt)と吉田理幹 (Pf/Vo)が赤裸々に語ってくれた。

Interview & Text/秦 理絵 Photographer/三浦孝明

もう隠す必要はないと思うんです。
いまは、もっともっと全部を曝け出したいんです。

──ふたりはすごく仲がいいですよね。ずっと共同生活をしてるとか?

佐々木陽吾(Vo/Gt) いまはもうしてないんですよ。5年ぐらい一緒に住んでたんですけど。

吉田理幹(Pf/Vo) ちょうど1年前ぐらいまでですね。

──そもそも、どうして共同生活を始めたんですか?

理幹 僕らがいちばん最初にやったワンマンライブが2014年だったんですけど、まだ組んでから7~8ヵ月ぐらいのときで、100人ぐらいの場所でやったんです。そのときに、「このふたりなら、いける!」と思ったんですよね。「音楽で飯を食っていけるぞ」って。当時、僕は横浜の実家から通ってたんですけど、陽吾さんは、六畳一間の高円寺のワンルームに住んでて。ライブのあと、「俺、明後日から陽吾さんちに住むわ」って言ったんです。

陽吾 で、「いいよ」って即答して。

理幹 一緒に住めば、いつでも路上ライブをしたり、ツイッターでカバー動画をアップできるようになるから、そのほうが絶対に良いんじゃないかと思ったんです。

──音楽を本気でやっていくための選択だったんですね。

陽吾 そうです。お互いに朝から夜までバイトをしてたから、一緒に住む前は、夜中にスタジオで練習してたんです。でも、移動時間を考えると、効率が悪くて。一緒に住めば、夜遅くまで練習できるし、帰り時間も心配しなくていいし。効率がよかったんです。

理幹 曲ができたときも、「ねえ、これどうかな?陽吾さん」みたいな感じで、すぐに聞けるし。ああいう制作のスピード感はふたりで住まないと出せなかったですね。

──このタイミングで同居生活をやめたのは、何か理由があるんですか?

理幹 えっと……正直に言うと、ふたりで住み始めてからも、ずっとバイトをしてたんですけど……。それだと、どうしても音楽以外のところに時間をとられるじゃないですか。だから、一回僕が実家に帰ることにしたんです。バイトをせずに、もっと音楽を突き詰める時間がほしい。そのほうが僕らの活動にとって、プラスになるって判断したんです。

陽吾 久しぶりにひとり暮らしになると、感覚が変わるから、出てくる歌詞もいままでと違うような気はするんですよね。

──メジャーデビューから3周年のタイミングで、そういうことを考えるようになったのは、やはり自分たちの状況を考えたうえで?

理幹 ここまでやってきて、やっといろいろなことがわかってきたんですよね。メジャーデビューした2016年のころは、自分たちのスキルが足りなかったし、いまの時代にどういうものを求められてるか?とか考えたこともなくて。ただ大人から言われるままに曲を作ってたんです。で、たくさん失敗もして、自分たちなりに勉強をして、ようやく「次はこういうものを表現したい」っていうものが、はっきり出てきた。っていうのもあって、ここから新しいスタートにしたいと思ったんです。

──なるほど。

理幹 正直……この2年間ぐらい苦しかったんです。活動をはじめたころは、けっこう簡単にSNSでバズったり、動員が増えたりしたんですけど。

──メジャーデビューしてからのほうがしんどかった?

理幹 うん、僕が未熟だったのもあって、大人のアドバイスを受け入れられなくて。たとえば、歌詞で言うと、僕が最初に書いてた歌詞はけっこう荒い部分も残ってて、文章としての辻褄が完全に合わないところがあったりして……。

──第三者にも伝わるように整えたりもしたんですね。

理幹 そう、言われるままに直したりしてたんです。でも、それが正しいとも限らないんじゃないかな、とか。経験を積んでいくなかで考えられるようになったんですよね。

陽吾 いろいろな経験が蓄積されていくにつれて、同時に悩みが増えてきたところはありましたね。ここから先、本当にふたりの夢である武道館とかアリーナに行くためには、どういう曲を作ればいいんだろうって、深く考えるようになったんです。

「花火」は、本当に自分たちがやりたいことを
突き詰めていくことをやれた、
最初の一歩みたいなシングル。

──でも、傍目から見たら、ふたりがそんなに悩んでるふうには見えないですよね。変な言い方だけど、ふたりからはそういう泥臭い匂いがしないというか。

理幹 そこがいまいちばん悩んでるところなんですよね。ずっとアーティスト写真も、きれいな感じ、爽やかな感じで撮ってもらってきたし。曲のなかでも、「“俺”を使っちゃいけない」とか、「女性目線の歌はなし」とか制限があったんですよ。

──“俺”は「フタリボシ」から使うようになったし、女性目線の歌は「消せないルール」がありますね(どちらもセカンドアルバム『Out Of Bounds』の収録曲)。

理幹 あのあたりで、やっとオッケーが出たんです。

陽吾 最初の1年はあんまり僕らに音楽的なところを求められてない雰囲気もあったんですよね。僕らもそれに反発できなかったんです。それがいまはちゃんと曲について、みんなで話し合って、「この曲はこうじゃないと意味がない」って押し通せる経験値もできたし。周りの人との信頼関係も築けてきたんだと思います。

理幹 そうだね。

陽吾 だから、今回の「花火」は、本当に自分たちがやりたいことを突き詰めていくっていうことをやれた、最初の一歩みたいなシングルなんです。

理幹 この2ヵ月ぐらいで、すごく成長できたんですよ。いまは、もっともっと全部を曝け出したいんです。自分たちにはこんなに熱いものがあるのに、ちゃんと届いてないのはもったいない。ここで喋ってることも、全部削らずに届けてほしいんです。

──全部書いていいんですか?

理幹 うん、隠す必要はないと思ってるんです。僕らのありのままを曝け出して、それでも僕らのことを応援しようって思ってくれる人と歩んでいきたいなと思ってるから。

恋愛の曲じゃ殻を破れない。
自分たちが一歩先に行くために、
ふたりでぶつかりながら作っていきました。

──じゃあ、そういう心境のなかでリリースされる「花火」について、具体的に話を聞かせてもらえればと思います。

理幹 この曲を作ったのは1月の頭ですね。7月にリリースするっていうのは決まってて。年が明けて、「2019年」っていう文字を見たときに、「やべえ、もうそんなに経ったんだ」って思ったんです。正直、まだ全然売れてないし、何も恩返しできてない。っていうところから始まって。じゃあ、どういう曲にしようかな?って考えはじめましたね。

──とても切ない曲だと思いますけど、どういう経緯でできたんですか?

理幹 今回のシングルでは、自分たちのちからをマックスに出せるものにしたかったから、いままでやってないような新しいことをやるのは嘘になると思ったんです。それで、いままで僕らがやってきた切なさをテーマにして、「夏の花火」の歌にしたんですね。一瞬でパッと咲いて、散ってしまう花火って、どうやっても切ない存在だから。で、最初は失恋の曲を書いてたんですけど、自分でぐっとこなかったんですよ。そこから10日間ぐらいこもって、曲に向き合っているなかで、相手を亡くなった人にしてみようって思いついて。そうやって書いたら、ようやく自分でも曲に感情移入できるぐらい、悲しくなってきたんです。

──実際に、大切な人を亡くした経験はあるんですか?

理幹 ……あります。だから、そのときの気持ちを思い出して書きました。失恋って、いずれは前を向けると思うけど、死は、なかなか前を向けないんですよね。

──この曲の終わりは、“立ち直れないや”って歌ってますからね。

理幹 この曲で、最後に前を向いて終わるのは、絶対にないなと思ってましたね。

──陽吾くんは、この曲を聴いてどう思いましたか?

陽吾 めちゃくちゃ好み!って思いました。「こいつ、やったな!」って。最初に書いてた失恋の歌詞でさえ、そのまんまいけるじゃんっていうレベルだったんです。サビの前に“僕たちは別れたよね?”って書いてて。それが、とても良い歌詞だなって。

理幹 でも、今回また恋愛の曲を作っても、殻を破れないんじゃないかと思ったんですよね。自分たちが一歩先に行くためには、いままでやってない題材を加えたくて。そこは、ふたりでぶつかりながら作っていきましたね。

──アレンジャーには、コアラモード.の小幡康裕さんが参加してます。これはどういう経緯だったんですか?

理幹 僕がお願いしたいって言い出したんです。いままではエレキギターで壁を作るようなアレンジが多かったんですけど、この曲ができたときに、ピアノ主体のアレンジがいいなと思ったんですよね。小幡さんは、僕らとソニーの育成時代に同期だったんですよ。

──年も同じぐらいですもんね。

陽吾 僕の1個上です。

理幹 小幡さんの実力は知ってるし、自分らのこともわかってくれてるから、ちゃんと自分たちの良さを出してくれるかもしれないなっていうところで、頼んだんです。

──実際にアレンジはスムーズに進んだんですか?

陽吾 実はけっこう何回も作り直してもらったんです。

理幹 自分たちの声質を考えながら、ストリングスの音程を細かく決めていったりしたんです。ここまで、自分たちが納得できるまで突き詰めたことはなかったですね。

──でも、今回はそれぐらいこだわりたかった?

陽吾 やっと音楽的な知識が身についてきたから、できるようになったんですよね。

「夏の神様」はモロに高校3年間の経験を書いた曲。
努力したら報われると思ってたけど、そうじゃないことも知った。

──カップリングの「夏の神様」は、陽吾くんの故郷でもある青森県の甲子園予選大会の応援ソングですね。応援ソングと呼ぶには、シリアスでローテンポなのが意外でした。

陽吾 これは、青森にキャンペーンにいったときに、青森朝日放送の番組のプロデューサーの方と話して、番組にかける想いを2~3時間かけて聞かせてもらったんです。それで、理幹は、甲子園レベルの球児でもあるから、「ぜひ作らせてください」っていう感じになって。ふたりで5曲作って、理幹が書いた曲が選ばれたんです。

──その5曲って全然タイプの違う曲だったんですか? たとえば、アップテンポで疾走感があるような曲もあったとか。

陽吾 ありましたね。逆にもっとバラードなのもあったし。

──そのなかで、この曲が選ばれたのは、どう感じましたか? 背中を押すというよりも、苦しみに寄り添うようなエールソングじゃないですか。

理幹 そう、これは寄り添う感じの曲なんですよね。この曲って、モロに僕の高校3年間の経験を書いてるんです。桐光学園高校っていう、甲子園を狙うような学校だったから、とてもついていけなくて、つらかったんです。「理幹なら絶対にレギュラーをとれるよ」って言われて入学したけど、世界が違ったんですよね。家族みんなが試合を見にきてくれるんですけど、2年生になっても、球拾いしかしてないんですよ。それが悔しすぎて。寮でめちゃくちゃ泣いたし。っていう苦しい経験があって、高校3年生の夏にレギュラーになれたのが、すごくうれしかったけど。いま思い返すと、悔しい気持ちが強く残ってるんです。

──それを、そのまま書いたんですね。

理幹 いま、こうやってスパボで楽しく夢を追えてるのも、あの3年間があったからだと思うんです。28歳になっても、「ここから絶対にやってやるからな」って諦めないでいられる精神は、あのときに身に付いたんですね。もしかしたら、もっと前向きで疾走感のある応援ソングのほうがいいかなと思ったんですけど、自分の経験をもとに書くなら、こっちのほうが、嘘がないんです。

──ありのままを曝け出すことのほうが、いまの自分たちには重要だから。

理幹 そうです。ずっと努力したら報われるんだと思ってたけど、そうじゃないことも知ったので。そういうことも、この曲にはちゃんと入れてみたかったんです。