新宿LOFT。都内屈指の、いや国内屈指の知名度、ステイタス、伝統を誇る、音楽ファンなら誰もが知る老舗ライブハウスの代表格。そのブッキング・マネージャーをつとめる樋口寛子さんが、入社当初は“LOFTにまったく思い入れはなかった”というのだから、人の運命はわからない。西新宿の旧LOFTから歌舞伎町の現LOFTへ、ゼロ年代から10年代へ、変化し続ける音楽シーンの中で、常に若いバンドやシンガーたちとともにあった彼女の目には、一体何が映っていたのか。ブッキング・マネージャー歴17年、良い歌と良い曲をこよなく愛する彼女の、飾らない胸の内を聞いてみよう。
ライブハウスは原石に出会える場所なんだなって、
ときめいたのがきっかけですね。
■樋口さんは、西新宿の旧LOFTの時代を知っているんですよね。
97年入社で、99年に移転しましたから、最後の2年ぐらいですね。その頃はアルバイトで、現場にいたわけではなく、ブッキング・マネージャーさんのサポートという役割だったので。こう言ったら何ですけど、西新宿にはそんなに思い入れはないです(笑)。私は歌舞伎町の新宿LOFTで17年やってきたので、思い入れがあるのはこの場所で、2000年代からですね。
■歌舞伎町も、移転当時とはかなり変わりました。昔はもっと怖かったような(笑)。
きれいになってから、10年近くたったかもしれないですね。移転してきた時は、歌舞伎町があまり安全な街ではないピークの時期で、けっこう抵抗はありました。でもこの10年内でわかりやすくクリーンになってきたと思います。当時はキャバクラが全盛期でしたけど、この10年でホストクラブが増えて、アジア系の観光客がすごく増えましたね。街も変わりました。出演者さんも、以前のような歌舞伎町だと“怖くて出られない”みたいなこともあったんです。一度だけですけど、実際に言われたこともあります。
■ライブハウスは渋谷や下北沢にもたくさんありますけど、新宿のライブハウスはやはり色が違う気がします。街の色の違いといいますか。
雑多な街ですからね。いろんなジャンルがひしめき合えるというか、あまり属させたくない人が、新宿とかがいいのかなと思うことがありますね。うちは特にそうですけど、パンク、ロック、アイドル、ビジュアル、若い方も往年の方もいて、“ロフト系”みたいなくくりがあるわけではないですし。西新宿の時代は、そういうものがあったかもしれないですけど、ここに移転してからは、一回取っ払った印象があります。それと、たとえば下北沢や渋谷には、小屋のカラーの強いライブハウスがありますけど、あんまりそういうカラーをつけたくないバンドもいるんですよね。そういう子たちには、LOFTはいいみたいです。いろんなジャンルがあるという、フラットなところを好んでくれているのかな?と思ったりしますね。
■そもそも、樋口さんがライブハウスで働こうと思ったのは、どんなきっかけが?
THE YELLOW MONKEYさん、スピッツさんがとても好きで、そこでライブハウスという言葉を知って。今はこんなに人気者だけど、ライブハウスはそんな原石に出会える場所なんだなって、ときめいたのがきっかけですね。まず最初にアルバイト募集に問い合せをしたのは下北沢SHELTERだったんですけど、「募集してない」と言われて、そこで回されたのが新宿LOFTでした。すでに20年近くやっている老舗だし、怖いライブハウスだなという印象があったし、正直嫌でした(笑)。合わなかったら辞めればいいやみたいな感じで入ったんですけど、まさかこんなに長くいるとは思わなかった(笑)。
■そして99年に、歌舞伎町へと移転。ブッキングの仕事を始めたのは、その頃ですか。
そうです。西新宿は250ぐらいのキャパだったのですが、移転したら550で倍になりました。西新宿の後半は、メロコア、パンク、ヴィジュアル系が多かったのですが、私が好きな音楽は、当時の新宿LOFTにはあまりなかったので、私だけすごく浮いていたんですよ(笑)。でも、それが物珍しがられたみたいで、「いい機会だからイベントとかどんどんやってみたらいいよ」と社長に言われて、私のブッキング人生が始まった感じです。500人なんて無理だよ!って、怖くてしょうがなかったんですけど、「責任は取る。大丈夫だから、好きなようにやってほしい」と言われて、背中を押されて、だったらやってみようと。右も左もわからないけど、試しに自分の好きなバンドを集めてイベントをやってみようと思って、やったのが最初です。先輩のアドバイスを受けながら作りました。
■最初は、どんなアーティストを集めたんですか。
「happy voice night」という名前で、つじあやのさん、advantage Lucyさん、Boat、Cymbals、キャンディ・アイスラッガーの5組です。それまでLOFTには、女性ボーカルでポップスで、というものはなかったんですよ。今思えば、私のそういう感覚を、みなさんも面白がってくれていたんだなって思いますね。その時は、イベントと、本を作っていたんですよね。ファンの視点によるインタビューとか、写真とか、いろんなカルチャーをまとめたミニブックを作って、発売タイミングでイベントをやっていました。それが「happy
voice」という本です。今でもその本は大事に家にとってあります。
■快調なすべり出し。そのあとは?
20歳でLOFTに入って4年間ぐらいは、お店の細かい仕事をしながら、できるタイミングでイベントをブッキングして、という感じでやらせてもらっていました。20代後半になって、LOFTで出会った人たちと一緒にレーベルをやることになるんですけど、そこで出会えたのがフジファブリック、メレンゲ、音速ラインです。インディーズで一緒にCDを出して、ツアーを回って、そういう経験はすごく大きかったですね。それが私にとってのゼロ年代です。
■一緒に育ってきたという感覚があるのは、そのあたりのバンドですか。
そうですね。今でもお付き合いをさせてもらっています。ゼロ年代を一緒に過ごしたバンドは、だいたいつながっていますね。あと、インディーズ時代によく出演してもらっていたのがスキマスイッチさん。バー・ステージのほうによく出ていて、ギターとピアノで。バー・ステージに出ていた人で、紅白歌合戦まで行った人って、私の知る限りではスキマスイッチさんしかいないです。今年はLOFTの40周年ということで、イベントに出てもらったのですが、昔のことをよく覚えていて、びっくりしました。