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SPECIAL INTERVIEW
田中宗一郎(編集者、音楽評論家、DJ)

それは“洋楽文化の歴史”でもある。
田中宗一郎に訊く「海外アーティストにとっての“日本”とは?」

インタビュー・文/照沼健太
 
田中宗一郎
編集者、音楽評論家、DJ。雑誌〈ロッキング・オン〉副編集長を務めたのち、雑誌〈スヌーザー〉を創刊。現在はWEBメディア〈ザ・サイン・マガジン〉クリエイティブ・ディレクターを務めている。
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レディオヘッドを成長させたのは、
日本のオーディエンス?
■タナソウさんといえばレディオヘッドとも密接なつながりがありますが、彼らのエピソードはありますか?
レディオヘッドの初来日は確か94年だったと思うんだけど、今話したような海外のアーティストと、日本のメディア、イベンター、ファンの関係がもっとも幸福な時代の渦中だったんですね。当時のレディオヘッドはデビュー・アルバムが鳴かず飛ばず。当時はすごく影響力を持っていたイギリスの音楽誌『NME』でも、トム・ヨークがライブで歌ってる時の歪んだ顔の写真をたくさん並べて、「世界で一番醜いバンド」なんてキャプションがつけられていた。今じゃ名実ともに世界一のバンドなんだけど、当時はホントひどい扱いだったんですよ。
■いじめられっ子ぽさがありますもんね。

しかも、イギリス国外で「クリープ」が大ヒットしちゃったもんだから、さらに嫌われちゃう。イギリスには、ザ・フーやレッド・ツェッペリン、ザ・クラッシュみたいなバンドがアメリカにツアーに出てビッグになると、みんなファンをやめるみたいな封鎖的な伝統もあって。で、アメリカでも一発屋扱い。そうした四面楚歌の状態で、しかも起死回生の1枚になるはずの2ndアルバムの制作も難航中。そんな最悪な状態で行われたのがレディオヘッドの初来日なんです。でも、ツアーの全会場がソールドアウトで、ホント大盛況だった。

当時、『ロッキング・オン』の社長の渋谷陽一さんと観に行ったんだけど、彼が満員の会場を見て「ロッキング・オンの力もデカくなったんだな~」って感慨深げに呟いていたのを覚えてます。要は、「この程度のどうしようもないバンドにこんなに客が集まるなんて」みたいな感じだったの(笑)。実際、当時のトム・ヨークはわざと髪をブロンドに染めて、ポップスターのパロディーをやっていた時期で、日本では「いしだ壱成に似てる!」と言われたりとか、そういうファン層もたくさんいたんだけど。
■いしだ壱成(笑)。
でも、ライブ自体は本当に素晴らしいし、まだリリースされていない『ザ・ベンズ』からの新曲を5曲も6曲もやっていて、それがすべて名曲なんですよ。しかも、今じゃ考えられないけど、その新曲をオーディエンスが万雷の拍手と凄まじいリアクションで応えるっていう。ライブ後にバックステージに顔を出したんだけど、本当にメンバー全員で大喜びで。あんなにはしゃぐメンバーを見たのは、あれが最初で最後ですね。

その勢いで本国イギリスに戻って、ずっと難航していたアルバムのレコーディングが一気に進んだりとか。彼らの初来日公演は間違いなくキャリアのターニングポイントだと思います。あの時の日本のオーディエンスがいなかったら、レディオヘッドは世界的なバンドになっていなかったかもしれない。
■その日本のオーディエンスのヴァイブスというのはどこから来たものだったのでしょうか?
やはり女子の妄想力的な?
いや、当時の『ロッキング・オン』編集長の増井修さんの功績が大きいと思います。渋谷さん時代の『ロッキング・オン』はどこか吉本隆明の思想の下に駆動していたところがあるから、大衆が認めるものが正しいんだという考え方だったんですね。でも、増井さんの方針としては、たとえ海外で受け入れられていなくても、自分がいいと思ったものは全力でプッシュするんだ、実際に日本で売れるバンドまで育て上げて、自分の正しさを証明するんだ、というがむしゃらなところがあったんです。その代表格がストーン・ローゼズ。初期のレニー・クラヴィッツもそうじゃないかな。渋谷さんからすると、「あんなものはダメだ。だって本国アメリカでも売れてないじゃないか。でも、増井の戦略上それが必要なら俺は目をつぶる」みたいな感じだったんですよ。

当時の僕とかはその間に挟まれて、「なるほどなー」なんて思ってました。でも、増井さんのがむしゃらさのおかげで、90年代を通して、日本特有のローカライズされた洋楽文化とマーケットが出来上がった。まあ、偏向はしてたと思いますよ。でも、レディオヘッドもその流れに綺麗にはまったというのは間違いないと思います。それはやっぱり『ロッキング・オン』の力であり、増井さんの力だったと思う。
とにかくデタラメだった、海外アーティストの取材
■田中さん自身は、日本における海外のロックなり、
ポップ・ミュージックなりの受容に関しては、どんな功績を残されたと思ってますか?
う~ん、もしちょっとした功績があるとしたら、インタビュー取材の枠組みとか、インタビューに対する姿勢を変えようと、内外からいろいろと働きかけたことくらいでしょうか。僕が入社する以前の『ロッキング・オン』的な価値観って、インタビューというのはアーティストとの勝ち/負けみたいなところがあったんですよ。アーティストを言い負かしたり、おかしな発言を引き出せたら、偉い、みたいな(笑)。

向こうは英語ネイティブだから、雑誌に印刷してある日本語を読めないし、好き勝手なことを聞いては、好き勝手なことを書いてたようなところがあるんですよ。僕が入社前の話なんですけど、『ロッキング・オン』に載った、U2について書いた読者投稿の原稿が英語に翻訳されて、バンドが謝罪を要求するなんてことになったこともあったらしくて。僕自身はそれを知らなくて、その後、スペインのマドリッドまで行った時に、その尻拭いをしなきゃならないなんて羽目にもなるんですけど。

で、とにかくアーティストの本国のマネージメントから信頼される関係を作ろうと思ったんですよね。ただ、通常、海外のアーティストの窓口になっているのは、本国のレコード会社のインターナショナル・セクションなんです。媒体は、日本のレコード会社のA&R経由、本国のインターナショナル・セクション経由で、アーティストのマネージメントと接しなきゃなんない。間を飛び越えることはご法度なんです。でも、海外取材に行く度にきちんとマネージメントの連中と話したり、何よりもインタビューの現場できちんと音楽の話をすることに務めたんです。
■これも今からすると信じられない話ですね!
でも、編集長の増井さんとかは、ブラーのデーモン・アルバーンの取材をするのに、「今回はとにかくデーモンがいかにスケベなのかを暴いてやる!」みたいな調子なんですよ(笑)。彼が時にはそういう角度からアーティストに接近したからこそ、洋楽文化が90年代日本のリスナーにとって、とても身近なものになったのは間違いないんだけど。でも、彼も僕の考え方は尊重してくれて、とにかくひとつひとつのインタビュー取材を単に記事を作るためだけじゃなく、本国との関係を構築するための機会として考えるようになったんですね。

その結果、「日本向けのインタビューというのはとにかく重要だ」という認識が本国のマネージメントにも伝わるようになった。自分が『スヌーザー』という雑誌を始めてからも、本国のマネージメントから連絡が直接来るようになったり、日本の市場とそれを開拓するための日本の音楽誌というのが本国でももっともプライオリティが高くなったのが90年代後半じゃないですかね。だから、今よりもっと海外と距離が近かったんです。
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