たまたま僕のまわりに変な人が
いっぱいいたんです(笑)。
今でも変なことが起こり続けてる(笑)。
■そもそもQueの店長を務めることになったのは、どういったきっかけだったんですか?
屋根裏で働いていたときにUK.PROJECTでCDを2~3枚作ったんです。プロデュースという関わり方で。そこにはHi-STANDARDの前身バンドとか、それからTHEE
MICHELLE GUN ELEPHANT、あと真心ブラザーズの桜井秀俊くんのバンドなんかを収録したコンピレーションがあったりして。たまたま僕のまわりに変な人がいっぱいいたんですよ(笑)。そういうのがあったからUK.PROJECTが「ライブハウスを作りたいから一緒にやって?」って声を掛けてくれたんです。
■その当時、90年代前半の下北沢って、どんな雰囲気でしたか?
ガラパゴス(笑)。これは、よく話してることなんだけど、その頃のライブハウス・シーンの本流は新宿と渋谷だった。いけてるバンドはみんな、そっちのライブハウスに出演してたんです。でも、まだまだこれからっていう若いバンドは、そこには行けないから、どんどん下北沢に集まってきて。そこで独自の進化を遂げて、ものすごい生き物になっていったんですよ。まさにガラパゴス化(笑)。
■新宿や渋谷とは異なる独自のシーンが形成された、と。
そうそう。その時代の本流に左右されないから。独自の進化だから、やっぱり最初のうちは「なんか気持ち悪~い!」とか言われちゃうわけですよ。でも、だんだん「これは希少生物だ!」みたいなことになって、いつしか下北沢も注目されるようになったんじゃないですかね(笑)。亜流だけど本流を覆すパワーがあったんだと思います。
■そんな当時のQueと現在のQueとの違いってありますか?
空気感そのものは、あんまり変わってないかな。僕のまわりでは今でも変なことが起こり続けてますしね(笑)。ただ僕自身が年齢を重ねたんで、そういう意味での変化は感じますね。以前は出演するミュージシャンに煽られて、それに必死についていくっていうような感覚がありました。めちゃくちゃやるバンドに負けないよう、そこに自分も乗っかってね。で、たまにミュージシャンが暴走するのを抑制したりとか。でも今は自分が引っぱる側になったというか。「もう少し暴走してもいいんじゃない?」って言いたくなることもある。これは単に年齢差の問題なのかもしれませんが。
■今の若いミュージシャンが大人しい、ということですか?
いや。今でもめちゃくちゃな若手はいますよ。ただ当時のほうが全体的にやんちゃだった。それは間違いない。僕の先輩にあたる世代は本当にひどかったですから(笑)。何かが壊れたり。ケンカになったり。みたいなことは、よく起こってましたよね。そういうのがなくなったのは、もちろんいいこと。当時は「そろそろちゃんと音楽やろうよ」って言いたくなることもあったくらいだから(笑)。
ただの音楽ファンなんだ、という気持ちがないと
店長は絶対にやっていけないんじゃないかな。
■店長を22年間やって特に印象に残っている出来事は?
ライブハウスそのものの話からは少し外れますけど。シーナ&ザ・ロケッツのシーナさんのお葬式を取り仕切らせてもらったことですかね。お話を頂いたときは、たまげました。だって高校生のときに一生懸命コピーしてたバンドですから。憧れてましたし。それが、やがて自分がやってるライブハウスに出演してもらえるようになって。それだけでも僕にとってはすごいことなのに、お葬式までお手伝いすることができて……。シナロケは79年デビュー。僕は13歳だったんですよ。ちょうどロックに目覚めた頃。同じ九州だったしね。それからずっと聴いてましたから。
■そういう部分に関しては、まだ10代の頃の、ただの音楽ファンだったときの感覚が残ってるんでしょうね。
うん。そうです。そこに関しては完全にそうですね。
■22年間、毎晩いろいろなライブを見てきても、そういう純粋さって残るものですか?
というか、そういう感覚がないとライブハウスの店長やスタッフをやっていくのは無理だと思います。経営っていう部分だけなら、やっていけるかもしれませんけど。ブッキングしたりイベントを企画したりっていうことを考えるとバンドマンでもダメ。ただの音楽ファンなんだ、という気持ちがないと絶対にやっていけないんじゃないかな。
■その感覚は努力して維持するものなんですか? それとも二位さんにとっては普通のこと?
う~ん……どうなのかな。わかんないですね(笑)。そういえば以前ひとつだけ意識してやったことがあります。90年代の中盤から後半ぐらいかな。その時期、しばらく意識的に洋楽を聴かないようにしてましたね。というのも、そういう洋楽に……まあ、あの頃だったらOasisなんかに影響を受けたバンドが多かったと思うけど、もろにOasisっていう感じのバンドが来ると、なんとなくがっかりしちゃったりするでしょ。そうならないために一時期は洋楽を避けてましたね。当時の僕にとってはOasisを好きになることよりも、その瞬間に目の前にいる日本の若手バンドを好きになることのほうが遥かに大切だったから。
■ライブハウスの店長やオーナーが、そこに出演しているバンドを愛しているかどうかって、ちゃんと観客に伝わりますもんね。
そうなんですよ! 伝わってほしいとも思ってますし。僕らは、ちゃんと伝わるように仕事をするべきだとも思いますしね。Queができた当時はロックっていうものが、このまま忘れ去られちゃうんじゃないか、みたいな感じが無きにしもあらずで。だから、そういう意味でも必死にやってましたよね。
■オープン当初って、そんなに危機感があったんですか?
危機感しかなかった(笑)。“イカ天”や原宿の“ホコ天”が終わって数年後ですからね。よくて現状維持だろうなって。僕自身も半分は諦めてましたし。屋根裏の後半とかは、ここを辞めたらトラックの運転手でもやろうかな、と思ってましたから(笑)。
■でもCLUB Queは、すごくうまくいきましたね。
びっくりしました。ふたを開けてみれば、たくさんの人がロックバンドを見に集まってくる。本当に予想外でした。
■成功の要因は何だったんでしょうか?
当時はわからなかったんですけど、でも今になって思えば下北沢にQueができたこと自体がエポックな出来事だったんでしょうね。そういうニュースを、そういう事実を欲してる人が少なからずいたっていうことだと思います。ロックというものが弱っていくように見える状況で、だからこそロック然とした新しいライブハウスが誕生することを求めてた、というか。そこに、すごくいいタイミングでCLUB
Queができたっていうことじゃないですかね。
■ブッキングについても教えて下さい。出演バンドの組み合わせというのもライブハウスの店長の大きな仕事ですよね?
もちろんです。それが最も大きな仕事と言ってもいいですね。ベーシック過ぎて、こういう取材では、あまり話題になりませんけど。
■これまでに手応えを感じた組み合わせは?
たくさんありますけど……わかりやすいところで話をするなら氣志團のことかな。彼らが初めて出演して衝撃を受けて。そのあとちょっと仕掛けてやろうと思って、怒髪天と、それからレピッシュの杉本恭一さんがやってたanalersっていう別バンドと一緒に組んだんです。その組み合わせは刺激的でしたね。あとはフラワーカンパニーズと八十八ヶ所巡礼っていうカップリングもよかったなあ。普通はあり得ないというか。どうしてこの2組なの?って不思議がられるような組み合わせだけどね(笑)。
■でも二位さんの中では、うまくいくに違いない、という確信があったわけですよね?
ありました。みんな絶対にびっくりするぜ、と思ってました。
■バンドの、それぞれの客層をから判断されたんですか?
そういうのもありますけど、そのときは……こう言うと先輩バンドには申し訳ないんだけど、やっぱり新進気鋭の氣志團や八十八ヶ所巡礼を世に知らしめたい、という気持ちが強くて。そういうブッキングだったんですよ。あ、でも氣志團をギャフンと言わせたいっていう意地悪な気持ちもありました(笑)。すごい先輩バンドがたくさんいるんだぞ、ということでね。
■どっちにしても、まだ駆け出しだった氣志團への愛情。
まあ、そうなんですけどね(笑)。今はカルメラがそんな感じです(笑)。