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SPECIAL INTERVIEW
田中宗一郎(編集者、音楽評論家、DJ)

それは“洋楽文化の歴史”でもある。
田中宗一郎に訊く「海外アーティストにとっての“日本”とは?」

インタビュー・文/照沼健太
 
田中宗一郎
編集者、音楽評論家、DJ。雑誌〈ロッキング・オン〉副編集長を務めたのち、雑誌〈スヌーザー〉を創刊。現在はWEBメディア〈ザ・サイン・マガジン〉クリエイティブ・ディレクターを務めている。
ザ・ビートルズの東京・日本武道館公演に始まり、最近ではサマーソニックにおけるレディオヘッドの「クリープ」演奏など、数々の伝説と言えるステージを生んできた日本。多くの海外アーティストが、オーディエンスの特殊性から、エキゾチシズム的な憧れまで、日本について多くを語ってきました。そこで今回、数多くのミュージシャンを取材するだけでなく、DJ/オーガナイザーとして数々のステージをともにしてきたザ・サイン・マガジンの田中宗一郎氏に、日本と海外アーティストの関係性、そして日本の「洋楽文化」についてお話を伺いました。
世界に先駆け、
日本から人気に火がついた伝説のアーティストたち
■日本でのライブや、来日経験等がキャリアに影響を与えたアーティストといえば誰がいますか?
まず思い出すのは70年代のことですね。70~80年代というのはまず日本から火がついて、その後本国や世界的にブレイクするアーティストがかなりいたんですよ。クイーン、チープ・トリック、ジャパン辺りがその筆頭なんですけど。クイーンは既に本国イギリス英国ではある程度エスタブリッシュされてはいたものの、評価はされてなかった。そういうアーティストたちが日本で先にブレイクした理由は、70年代の日本って海外のロックを一番最初にキャッチしたのが10代の女の子だったからなんですね。
■最先端は若い女の子たちだったんですね。
おそらくビートルズの時代もそうだったと思うんですけど、誰よりも高感度なアンテナを持った彼女たちが「キャー」と大騒ぎしてたから、強面の男連中が後になってそれを追いかけてくる、そういう流れだったんです。当時、青池保子の『エロイカより愛をこめて』っていう人気少女漫画があったんですけど、明らかにキャラクターの大半がレッド・ツェッペリンのメンバーをモデルにしていたり。少女漫画の読者とロックのリスナーが同じだった時代だったんです。だから、デヴィッド・ボウイもすごく人気があった。
■少女漫画とロックが同じ枠!
チープ・トリックやジャパンが日本から先に売れたのも同じ理由なんです。チープ・トリックが本国アメリカでブレイクしたのは、彼らの武道館の演奏を収めたライブ盤『チープ・トリックat武道館』なんですよ。このアルバムに入ってる「アイ・ウォント・ユー・トゥー・ウォント・ミー(邦題:甘い罠)」を演奏した時の、日本の女の子たちのコール&レスポンスがホントすごくて。ジャパンの場合も、まず日本で人気が出て、その後音楽性が高くなるにつれて、ようやく本国イギリスで評価されるようになって、解散時には一風堂の土屋昌巳がギタリストとして参加することになったり。とにかく70年代半ばから80年代初頭までの日本はイギリスやアメリカのアーティストからすると、かなり特別な場所だったんです。
■女子の妄想力が高かったということですか?
今と違ってアーティストの動画なんか観られないし、1枚のアルバムを出してからの1年半で、せいぜい3枚くらい写真が見られればいいくらいだったから。音楽を聴きながら“きっとこうに違いない”って想像するしかなかった。だからこそ、当時の白人ロック・ミュージシャンは白馬の王子さまとして受容されてたんだと思います。セレブリティー・ビジネスだったし、ファンタジーの投影先だったし、萌え対象だったんですよ。
■情報が少ないからこその現象ですね。
当時、『ビバ・ロック』という音楽雑誌があって、海外のアーティストが3等身のキャラになってドタバタ劇をやるという『8ビート・ギャグ』という漫画が掲載されていたりとか。そのメイン・キャラがジャパンのメンバーだったんですね。『ロッキング・オン』とか他の音楽雑誌にしても、読者欄にアーティストの似顔絵が送られてくるのも定番だった。そんな時代です。しかも、今でいう腐女子的な萌え絵。クラッシュみたいなシリアスなパンク・バンドでさえ、ジョー・ストラマーとポール・シムノンの仲が良すぎて、裸のミック・ジョーンズが身体を捩りながら、拗ねてるような。日本の腐女子カルチャーって洋楽文化から始まったんじゃないですかね。

勿論、デヴィッド・ボウイみたいに実際に京都に家を持ってたり、文化的に日本という国をきちんと理解しようとした知的なアーティストもいたにはいたんですけど、大半のアーティストは日本をエキゾチックな謎の国として見ていただろうし、日本のリスナーも西洋に対するファンタジーを彼らに投影していたんだと思います。ただ、ある時期までは、そのねじれた関係がとても幸福なものだったということなんだと思います。
■日本では線の細い、UKロック然とした人たちが売れるというイメージはありましたね。
いや、そもそも英国のアーティストというのは本国だけで活動していくのは難しいんですよ、経済的にも。だから、誰もがまず日本を目指し、次は欧州全域を制覇してから、アメリカに乗り込む。そういう流れがあったんです。だから、ポリスみたいなバンドは、活動初期は年に2回か3回くらい日本でツアーをしたり、日本語ヴァージョンを作ったりもしてたんだけど、アメリカでブレイクすると、二度と日本に来なかった(笑)。
80~90年代で訪れた「洋楽」の変化
■70~80年代の話をお聞きしましたが、その次代からは変化がありましたか?
その関係に変化が現れるのはパンク~ニュー・ウェーヴ以降なんじゃないですかね。80年代以降、日本の洋楽マーケットというのは興業の面で大きく変わるんですよ。それには今も<フジ・ロック>を運営してる<スマッシュ>の存在が大きくて。83年だったかな? ニック・ケイヴやアインシュトルツェンデ・ノイバウテンみたいなアーティストを通常の音楽コンサート・ホールじゃない場所で行うようになった。その後、川崎のクラブチッタみたいなオール・スタンディングのライブ会場ができたり。そのおかげで、大スターじゃない人たち――インディ・バンドや新人バンドが以前に比べれば、飛躍的に日本ツアーを行うようになった。欧米のアーティストが一気に身近になったんですね。で、その代わりに幻想が薄まっていったってことだと思うんです。

ただ同時に、たくさんのアーティストが比較的容易に日本に来られるようになったから、また別な形でビッグ・イン・ジャパンがいくつも生まれるきっかけにもなっていったんですよ。初期のマニック・ストリート・プリーチャーズもそうだし、ストーン・ローゼズもそう。1stアルバムをリリースした時期とかだと、ストーン・ローゼズは地元マンチェスターでは人気があったけど、まだ英国南部、特にロンドンではそうでもなかった。同時期のジーザス・ジョーンズの方は遥かにイギリス全体では人気があった。
■今からすると信じられない状況ですが……。
だから当時、ひたすらストーン・ローゼズを取り上げる『ロッキング・オン』を見て、海外の状況を知ってる人たちはそれを馬鹿にしてたりしたんですよ。当時の『クロスビート』とか、『ミュージック・マガジン』とかの読者は特にそうだったんじゃないかな。当時はまだ一読者だった僕もよくわからなかった。でも、その後、ストーン・ローゼズは本当にビッグになっちゃうわけです。だから、90年代半ばくらいまでは、日本のメディアとイベンターの努力もあって、日本というのは欧米のポップ・アーティストにとって、かなり特別な場所であり、特殊なマーケットだったんですよ。
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