▼▼▼ 『蔦重ゆかりの地を歩く・吉原コース』 ▼▼▼
【開催日】5月4日(日)
【時間】9:30~13:30(予定) ※集合9:30
【コース】三ノ輪〜吉原〜浅草コース
【集合】東京メトロ日比谷線「三ノ輪駅 」出口3方面 明治通り改札前の階段
【解散】「浅草駅」周辺
【参加費】1名 11,600円 ※税込み
【昼 食】すき焼き『ちんや』お昼のすき焼きセット(椿セット)
【募集人数】15名 *定員になり次第締切ます
【参加費支払】クレジットカードでの事前決済(VISA・MASTER・JCB)
【諸注意】
・本企画は現地集合、現地解散となり、交通費は各自負担となります
・解散時間は若干遅れる場合がございます
・雨天決行(ただし荒天の場合中止)※中止の場合、参加費は返金されます。
・本企画にはガイド1名が同行します。
【主催】大江戸歴史散策研究会
◆ 『蔦重ゆかりの地を歩く・吉原コース』 ◆
【浄閑寺】
浄土宗の寺院で、明暦元年(1655)の開創で、寛保2年(1742)に山門等が建立されました。吉原遊廓の誕生の明暦3年(1657年)よりも2年早い。寺によると、同寺が投込寺と呼ばれるようになったのは、安政の大地震(1855年)で大量の遊女が死亡した際に、この寺に投げ込むように葬られたことによるとされています。
【平賀源内の墓】
平賀源内墓は、国史跡に指定されています。平賀源内は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した発明家で、エレキテル(摩擦起電機)の復元製作や、火浣布(石綿の耐火布)の発明で著名です。安永8年(1779)十一月に誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で十二月十八日に病死、遺体は橋場の総泉寺(曹洞宗)に葬られました。
【見返り柳】
見返り柳は、遊廓の入り口付近に生えた柳の名称。遊廓で遊んだ男が、帰り道に柳のあるあたりで、名残を惜しんで後ろを振り返ったことからこの名が付きました。
【五十間道】
日本堤から唯一の出入口である大門までの道で、約100mの距離でした。裕福な人は舟や駕籠、馬を利用しましたが、一般の人は主に徒歩で通っていました。蔦屋重三郎の吉原店があったのは、この通りの南側です。
【吉原大門】
大門は、お歯黒どぶで囲まれている吉原遊郭の唯一の入り口です。黒塗りで板葺き、屋根付きの立派な冠木門でした。夜明けとともに開門し、夜四つ(午後十時頃)に閉門しましたが、その後は脇の小さな袖門を利用できたので、実質は深夜でも出入りできたようです。
【お歯黒どぶの石垣擬定地】
吉原遊郭の周囲には塀が張り巡らされ、さらにその外には「お歯黒どぶ」と呼ばれる、5m以上も幅がある堀がありました。遊女たちが吉原遊郭の外へ抜け出たいと思っても、このお歯黒どぶが行く手を阻んだのです。
【吉原神社】
「新吉原」には廓の守護神として五つの稲荷社が存在しました。吉原の入口である大門(おおもん)の手前に「玄徳(よしとく)稲荷社(吉徳稲荷社)」、さらに廓内の四隅には「榎本稲荷社」「明石稲荷社」「開運稲荷社」「九郎助稲荷社」がお祀りされていました。その後明治5年に、これら五つの稲荷社が合祀され、総称して吉原神社と名付けられました。
【吉原弁財天】
大正12年(1923年)の関東大震災では多くの遊女がこの池に逃れ、490人が溺死するという悲劇が起こりました。弁天桐付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した遊女の供養のため大正15年に造立されたものです。
【正法寺・蔦屋重三郎の墓碑】
蔦屋家の墓碑は正法寺にありましたが、度重なる震災戦災にて失ってしまいました。蔦屋家の墓碑はかつて本堂の裏手に2つ(蔦屋家歴代と蔦屋重三郎)並んで建っていました。現在の墓碑は昔の形を史料を元に復刻したものです。
◇【あしたのジョー像】
漫画『あしたのジョー』の主人公、矢吹丈をモデルにした「立つんだ像」が立っています。この辺りは山谷と呼ばれたドヤ街で、物語の舞台となったところです。近くのいろは通り商店街の北側には、泪橋(現在は交差点名のみ)もあります。
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大江戸歴史散策研究会 歴史ガイド:瓜生(ウリウ)
【電話】050-3626-6622 【mail】uryu1023@gmail.com
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