【大江戸歴史散策研究会10周年記念】復活! 江戸城歴史ウォーキング
【開催日】5月5日(日・祝)
【時 間】9:30~12:30(予定) ※集合 9:30
【コース】江戸城東御苑コース
【集 合】東京駅丸の内中央改札口前(地上)
【解 散】日本武道館周辺(九段下駅)
【参加費】1名 4,500円 ※税込み・小人同額
【お弁当】なだ万 〜華〜
【募集人数】先着20名
【イベント条件・諸注意】
・解散時間は若干遅れる場合がございます
・本企画は現地集合、現地解散となり、交通費は各自負担となります
・雨天決行(ただし荒天の場合中止)※中止の場合、参加費は返金されます。
・本企画にはガイド1名が同行します。
・お子様のご参加は小学生以上とさせて頂きます。
【主催】大江戸歴史散策研究会
◆『復活!江戸城歴史ウォーキング』◆
JR東京駅丸の内中央口(9:30)集合---和田倉門---二重橋---伏見櫓---坂下門---桔梗門---桜田二重櫓---大手門--- 大手三の門---同心番所---百人番所---中ノ門跡---大番所---中雀門---展望台---本丸御殿跡---富士見櫓---松之大廊下跡---富士見多聞---石室---大奥跡---天守台---北桔橋門---北の丸公園---清水門---田安門---(お弁当)---解散(日本武道館周辺・12:30ごろ)
<二重橋>
→二重橋は、奥の鉄橋のことをさします。手前の石橋と思われている方が多いと思いますが、厳密には違うのです。江戸時代の頃は、奥の橋の部分は、堀までの高さがかなりあったため、補強のために、橋桁を二重に組んでいたことから、二重橋と呼んでいました。二重橋の二重は、縦に二重という意味なのでした。
<大手門>
→江戸城の正門、大手門は、藤堂高虎によって作らました。江戸時代最大の火事である明暦3年(1657年)の明暦の大火によって、大手門は消失してしまいましたが、その後再建されました。
<本丸御殿>
本丸御殿のあった場所は、ちょうど芝生が敷かれている場所になります。手前から表向き。幕府の行政の場所でした。真ん中が、将軍の公邸があった中奥向き、そして、将軍の私邸の大奥となります。
<富士見櫓>
富士見櫓は、1657年の明暦の大火で、天守閣が焼失した後、1659年の万治2年に再建されてからは、天守閣のとして役割を果たしていました。
<松之大廊下跡>
松之大廊下跡の石碑が立っている場所が、あの忠臣蔵で有名な刃傷事件があった場所です。幅5メートル、西へ19メートル、北へ折れて31メートルという想像もできないような大きな畳敷きの廊下で起きた事件です。1701年元禄14年3月14日のことでした。
<天守台>
東西41メートル、南北45メートル、高さ11メートルの石垣です。江戸城の天守は、家康が1607年に、二代将軍秀忠が1623年に、そして三代将軍家光が1638年にそれぞれ自分の将軍時代に建て替えられ、合計三度立て替えられています。四代将軍家綱の時、再建が石垣工事まで進んでいましたが、将軍補佐役の保科正之が、「太平の世になった今、天守閣など必要ない、江戸の復興に力を注ぐべき」と進言し、工事は取り止めとなり、以後、天守閣は再建されることはなかったのでした。江戸城が存在したのは、江戸時代初頭の50年だけだったのです。今も残るこの天守台の石垣は、明暦の大火の翌年に、加賀藩前田家の普請によるものです。
<北の丸公園>
江戸時代の初めの頃は、二代将軍秀忠の長女の千姫や、三代将軍家光の乳母の春日局、家康の側室の英勝院(お勝)など、江戸時代の初期の将軍に近い女性のお屋敷がありました。江戸時代の中期には、八代将軍吉宗の次男が田安家を興し、九代将軍家重(吉宗の長男)の次男が清水家を興し、両家で北の丸を折半するようになりました。明治から終戦までは、近衛師団が駐屯する場所となっていました。
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大江戸歴史散策研究会 歴史ガイド:瓜生(ウリウ)
【電話】050-3626-6622 【mail】uryu1023@gmail.com
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